ショーGEKI「新撰組」のこと
(2011 ショーGEKI大魔王「新撰組」公演パンフレットより転載)

2011.4.10

この「新撰組」は今回で3回目の上演となる。
初演は1997年、ショーGEKIの前身「ツール ド フォース」の時。そして再演はショーGEKI結成5年目の2003年。いずれも「新撰組」「維新士」2作品の同時上演という公演だった。「新撰組」単体で上演するのは今回が初めてである。

ここからしばらく、初演の話をさせていただく。
それまで「大逃亡〜義経と弁慶」「八犬伝」という時代劇をやってきたぼくらが3回目に取り組んだのが、この「新撰組/維新士」だったのだけど、これには前2作と明らかに違う点があった。
カンタンに言うとそれは「ゾンビも怨霊も出て来ないこと」。つまり「人間同士が殺し合うこと」さらに言うとその人間同士は「お互い『自分が正しい』と思ってる」ということである。アニメで譬えるなら「マジンガーZ」と「ガンダム」の違いみたいなものか(別に譬えなくてもよかったか)。
敵同士が、お互い「自分が正しい」と言ってる話なので、それに合わせ、ひとつの話を新撰組側・維新士側の両方の視点から描いた2本の芝居になったワケだ。

こんにち、世に出回っている演劇・映画・ドラマの多くでは、当たり前のように人がバタバタと死んでいるが、演ってる方は死んだ経験がないのはもちろん、人を殺した経験だってない(多分ない)役者たちだ。言ってしまえば、生き死にの芝居というのは役者のつく嘘の中で一番の大嘘なのである。
ゾンビや怨霊を倒すのとはワケが違う。自分と同じように名前もあって、親兄弟もいて、夢も希望も持ってる人間と殺し合いをするのだ。一度も死んだことも人を殺したこともないぼくらが、どこでその大嘘を自分自身に納得させるか。そのキーワードが「正義」だった。
自分の正しさを確信できる人はブレない。そればかりか、かなりキツイ決断(たとえば、人を殺さなくては、あるいは自分が死ななくてはならないような)を迫られたって、自分が正しいことに自信があるなら迷わないでいられるのではないか。この「正義」というキーワードを得て、ぼくらは初めての「人同士が殺し合う芝居」に挑むことになったのである。

台本をもらい一読して、まあツッコミたくなるところは数々あったが(相変わらず誤字誤植が多いな、なんてことも含めて)、一番ひっかかったのは次のことだった。

「なんでこいつらはこんなに自分の正義を信じられるんだ? これは過信か、ひょっとして狂信なんじゃないのか?」

……あ、そうか。
狂信、ひいては狂気。そうなのかも知れない。日本史上において、ほかのどの時代よりアツかった時代に、ほかのどの場所よりアツかった(そしてたぶん暑かった)京都において活躍する、この芝居の登場人物たちは、現代の目から見ると多かれ少なかれみんな狂っていたのかも知れない。これは、ひたすらに正義を求め戦った、ひょっとしたら狂っていたかも知れない男女の物語なのだ。
それに、彼らが狂ってると言うなら、じゃあ今の世の中はどうなのだろう? 価値観が多様化し、何が正しいのかよくわからないままに生きてる……そんな状態が「狂気」でないと言えるだろうか? どっちも狂気だとしたら、自分の信じるもののために命を張って戦う、そんな生き方の方が、少なくとも清々しくないか? カッコよくないか?
そう思ってくれた人は多かったのだろう。おかげさまで「新撰組/維新士」は大好評のうちに幕を下ろすことができた。客席の熱気が、いつもとほんの少し違うようにカンジられた。幕末という時代・そこに生きた人たちの清々しさ・カッコよさに惹かれる人が多かった、ということだったんじゃないだろうか。

回を重ね、3度目の上演となる今回。
「幕末剣舞烈風伝」というサブタイトル(回を追うごとに仰々しくなる気がするなあ)を冠したこの芝居では、その名の通り風がよく吹く。それは、時には桜を散らす春風であったり、凶兆をもたらす不吉な風であったりするが、なによりまずそれは、時代を駆け抜ける者たちが巻き起こす清々しい風だ。

ぼくらショーGEKIが(今回は総勢50名の「ショーGEKI大魔王」ですが)初めて踏む本多劇場の舞台に、その清々しい風を吹かせることができれば、そしてその風を客席の皆様にも感じていただければ、なによりシアワセなことと思います。